伊勢河崎商人館 〒516-0009 三重県伊勢市河崎2-25-32 TEL&FAX 0596-22-4810

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山田羽書

山田羽書を知る

伊勢山田町衆の奇跡
日本最古の紙幣「山田やまだ羽書はがき


山田羽書とは

山田羽書は日本最古の紙幣で、1610年頃、神都伊勢山田(現伊勢市)の町衆によって生み出され、明治時代まで約250年間に渡り、神都伊勢周辺で流通した紙幣です。

なぜ「山田羽書」が伊勢の地で生まれたのか?

伊勢のまちはその歴史的・地理的な特殊性もあって早くから商業が発達し、また御師(おんし)の信用力が大きく、信用経済的な萌芽の素地が形成されていた。
特に室町時代以降、当地は御師を中心に自治が行われ、神都伊勢の風土に培われた信用力と、自治都市運営に対する町衆の力が相まって、地域経済上、個人の手形的なものが次第に紙幣の形態を整え、独自の紙幣「山田羽書」が生み出されたのであろう。
関東の金遣いと上方の銀遣いという貴金属貨幣の使用の東西差があった江戸期、東西の結節点である伊勢では金銀貨をいずれも使用するという状況下にあり、秤量(しょうりょう)貨幣(かへい)であった丁(ちょう)銀(ぎん)(慶長銀)の切(きり)銀遣(ぎんづか)いが禁止になった17世紀初頭に小額銀貨の補完を主目的として預(あずかり)手形(てがた)の様式を応用・発展させる形で発生したと考えられる。

*御師は全国各地の自己の檀家(信者)へ伊勢神宮のお祓いや土産等を配って伊勢信仰を広め、また伊勢参宮を勧誘、斡旋し、さらに参宮客を門前で営む旅館(自らの館)に宿泊させることを職としていた。今風に言えば旅館を経営した旅行代理業者と伊勢神宮の神職を兼ねた総合エージェンシー的な存在。

羽書

山田羽書の券面デザインの特徴

【表面】
表面上部の「頭判」と呼ばれる部分には人物や米俵などがあしらわれている。また「頭判」には「目附判」と呼ばれる小さな印章が重ねて押されている。表面中央両脇には「袖判」が押され、額面(銘判)と重なるように「朱印」や「あしらい判」などが押されるなど多色刷の形態である。表面下部には発行株主名を記した「異儀判」(寛文8年(1668)以前の「丁銀」印のある初期山田羽書にあった「異儀」文言に由来)が押されており、それに「枕貫」や「異儀隠」の印章が重ねて押される。

【裏面】
裏面上部には神像のデザインのある裏判(上部写真は毘沙門像)が押されていて、これは「最モ大切ナモノニシテ、真贋ハコレヲ以テ区別スヘキ」と重要視されていた。裏判の図柄の配置はすべての羽書券面に共通である。裏判には神像だけでなく、「戌申」(嘉永3年(1848))といった干支、「山田羽書総中」という文言が彫られている。裏面中央部には「裏貫」と呼ばれた印章、さらに裏面下部には羽書発行組を記した「組判」の印章が押されている。

山田羽書の年表

年表

山田羽書Q&A

Q1.山田羽書の通貨史的意義はどのようなものですか?

A

1.わが国最古の紙幣でありながら明治時代初めまで途切れることなく継続して発行されるほどの高い信用力があったこと。
2.私札(公的紙幣というべき藩札に対して商人などが発行した私的な紙幣)として自治体(山田三方)の管理下に発行された紙幣であるが、次第に公的な性格をも有するようになったこと。
3.全国の私札・藩札のルーツ的存在という意味で、わが国の近代紙幣と歴史的つながりが想定できること。
4.18世紀末期から発行された山田羽書は兌換準備金が完備された全国的にも珍しい完全補償型というべき紙幣といわれていること。

Q2.山田羽書は日本最古の紙幣といわれていますが、いつごろ誕生したのですか?

A

恐らくは江戸初期(17世紀初頭)に発生したといえる。現存する山田羽書は日本銀行所蔵の慶長15年(1610)のものが最古であるが、記録上では慶長20年には伊勢の地での使用が確認できる。

Q3.山田羽書は世界的に見れば何番目の紙幣ですか?

A

山田羽書は、宋の時代に「交子」や元の時代に「交鈔」を発行した中国に次いで2番目に古い紙幣といわれていますが、近年ではその位置づけの再検証が行われつつある。ちなみにヨーロッパでは1640年頃、正式には1694年設立の英蘭銀行により最初の近代的紙幣が出現したといわれている。

Q4.山田羽書は現在の貨幣価値に換算するとどの程度ですか?

A

銀1匁札は64枚で金1両と交換可能とされているため、1匁札で約700円から1000円程度と試算することもできるが、江戸期の物価は変動が激しく、一概には言えない。

Q5.山田羽書の名前の由来はどのようなものですか?

A

定説は確立していない。ただ近年、イエズス会が1603年に刊行した『日葡辞書』には「署名した文書又は証書」という解説付きで「はがき」という項目が存在することが確認されている。また「羽書」の文字が現れるようになった初見としては射和羽書(いざわはがき)を発行した射和の富山家の元和10年(1624)の事例が管見の限りでは最も古い。

Q6.山田羽書の発行者は誰ですか?

A

山田羽書は伊勢外宮門前町山田の御師や商人たちの手により発行されていた。寛政2年(1790)からは山田奉行の差配のもと山田三方当番、羽書取締役、羽書年行事という役職により山田三方会合所内で作業され管理・発行された。

Q7.発行制度はどのようなものですか?

A

 「組」→「株仲間」→「三方会合」と変遷し、宝永6年(1709)三方会合は新旧羽書の全面交換を実施し、7年毎に新旧引き換えを行い旧札は切り捨てるのが原則となったという。山田羽書は町々に貸し付けられ、その利子収入で三方会合の経費を補っていた。 ちなみに元禄10年(1697)時点では発行株仲間(羽書屋)229名 羽書発行高68万7000匁 羽書発行枚数82万4400枚。

Q8.羽書の種類はどのように決められたのですか?

A

元文5年(1740) に、以前からの慣例を踏襲したうえでの山田羽書の制度改革が行われ、これ以降は1匁(もんめ)(白色)、5分(青色)、3分(赤色)、2分(黄色)という発行ルールが明文化された。なお券面の寸法は額面にかかわらず、全て同寸法(ほぼ16cm×3㎝)に定められていた。銀1匁札64枚で1両と交換できると券面上で謳われている。


山田羽書見本刷等覚書

【山田羽書見本刷等覚書】(個人蔵)
見本刷とは券面に押された印章の試刷のこと。
羽書を発行する株を有する人物は羽書屋と呼ばれており、各自の名義は引替文言と共に1個の版木「異儀判」に彫り込まれている。
羽書屋ごとに異儀判は異なっていた。

Q9.偽札防止策はどのようなものですか?

A

偽造防止のために7年ごとの新羽書製造の際に裏判の図柄を変更し、新たに彫刻させている。18世紀代には山田の版木師への発注をやめ京都の細工師(金屋善助)に注文する方式を採用している。また繊細な多色刷や重ね刷、小さな目印の版木を組み合わせるなどの工夫も見られた。

Q10.偽造羽書が市中で発見された場合はどのようにして判定していたのですか?

A

羽書年行事・取締役が「羽書手鑑」などの見本刷をもとに、「銘判」「枕判」「異儀判」などの印章を逐一照合・確認したという記録が残されている。偽造羽書が発見された際に、表面のどの箇所に特徴があるかを把握することで、同様の手法で製造された偽造羽書の発見を容易にし、その流通を阻止する手掛かりとしていた。

Q11.山田羽書の他に紙幣はどのようなものがありましたか?

A

津藩や和歌山藩、鳥羽藩といった現在の三重県内に領地を持つ各藩が山田羽書を参考にして、藩札と呼ばれる地域紙幣を発行していた。

Q12.どうして250年も継続して使用されたのですか?

A

その要因としてはまず発行制度が整備されていたこと(一定の発行限度と十分な正貨準備による羽書の不換紙幣化の防止、また山田奉行所と羽書関係者が一体となり羽書の信用保持を第一義として運用にあたっていたこと)があげられる。
また山田地区が長期間、政治的・経済的に安定を維持していたことも重要である。とりわけ伊勢の町衆(御師・商人)の経済力・信用力が大きかったことがある。


【山田羽書の主要な裏判(総判)の一例】 
山田羽書の主要な裏判の一例
左から順に
1.嘉永元年(1848)戊申「毘沙門(右向)」
2.安政元年(1854)甲寅「福禄寿(左向)」
3.文久三年(1863)癸亥「恵比寿(左向)」
4.明治元年(1868)戊辰「恵比寿(左向)」

Q13.山田羽書の原料調達はどのようにしていましたか?

A

専用の和紙は美濃国岐阜(指定の紙漉師は出口新左衛門)に漉きの道具を送るなど特別に発注されており、納品は船で河崎に到着、河崎の廻漕問屋村田弥兵衛家から山田三方会合所へ搬入された。

Q14.一枚の山田羽書を刷るための版木の個数はどのくらいですか?

A

表と裏の様々な個所に合計10個以上の印章が分けられて押されていた。

Q15.山田羽書の最後はどのようなものでしたか?

A

明治維新から明治8年 (1868~1875)までは発行システムをほぼ踏襲しつつ、度会府札として発行されたものの、ついに政府の禁止令により終焉を迎えている。

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